街にクリスマスの飾り付けがあふれ、デパートや商店街はクリスマスをまるで歳末商戦のキャッチフレーズででもあるかのように騒ぎ立てています。 「そのとき、見えない人の目が開き聞こえない人の耳が開く。
そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで荒れ地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり乾いた地は水の湧くところとなる。
山犬がうずくまるところは葦やパピルスの茂るところとなる。 」
旧約聖書イザヤ書35章、救い主を待ち望む詩です。聖書の中にはこの様にさげすまれ、どん底の生活、時には捕囚となるという苦悩の中で何百年も救い主イエスキリストを待ち望み、その日が来たら、その日が来たら、「来たりませ主よ!」と待ち望むところが何カ所もあります。
20世紀は暴力の世紀であったと言われます。
同時にそれは破壊の世紀でもありました。環境がおかされ、人類は水や空気までを汚し、その結果末期的な現象に自分たちが日常的に苦しんでいます。
開発途上国や戦火の絶えない国々では子どもたちが飢え、戦い、死んでいきます。
今年6月、IPUの会議でヨルダンへ行きましたが、その時お隣のイスラエルも訪ね、ほんの少しイエス・キリストの足跡をたどりました。ベツレヘムのイエス誕生の馬小舎の上には教会が建っており、礼拝堂にあけられた小さな穴をのぞくとイエスが生まれた時寝かされた飼い葉おけが見えるということでしたが、実際は暗くてよく見えませんでした。イエス・キリストが処刑されるために十字架を担って幾度もつまずきながら登ったゴルゴダの丘への坂道もたどりました。
こんなに何百年も待ち続けた救い主の誕生と十字架刑に処されるという結末を当時生きていた人々はどのように受け止めたのだろうか。どうして、どうして、と問い続ける日々だったかもしれない。やがて人々は復活を知るのだけれど。
イエスの誕生物語は飼い葉おけの幼児が客間に居場所がなかったことを告げています。そしてなによりも先づ救い主の誕生を神から知らされたのは社会の最も低い位置にあった羊飼いたちでありました。誕生の時だけではなく、郷里ナザレからも拒否されたイエスは枕するところもなく、門の外で十字架刑に処された。33歳でありました。
肥満と飽食の日本の客間――本来開かれた場に、戦火の中にいる子どもや飢餓に泣くアジア・アフリカの子どもや人々は入れない。
我々、日本人の中に、否、先進国といわれる国々の政治の中枢の中にこうしたアウトサイダーやホームレスの人々、ストリートチルドレン、性的な暴力を受けている女性たちの居場所はない。アイヌ民族の人々にも在日外国人にも客間はない。
凶悪な犯罪に走ってしまったり、ひきこもりの少年たちにも家庭の中に勿論、年35、000人ともいわれる自殺者にもどこにも居場所がなかったのかもしれないと思います。
クリスマスをどのように迎えるか。人様々です。
21世紀、私たちの課題はなんでしょうか。