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私が幼い時、日本は戦争をしていました。神戸に住んでいましたので、戦火の中を逃げ廻って大きくなったと言っても過言ではありません。我家の焼けあとに立って大事にしていた本や人形など全てがチリチリの灰になっていたこと。父の会社や家財道具など全てを失ってしまったこと。転々と疎開をし、見知らぬ土地へと心細い思いで行ったことなど、幼いながらの戦争の体験は大変だったけれど、私の心の中にドンと居座り、どんな理由があっても戦争はダメと考え続けて来ました。 あとで知ったのですが、私の生まれた年が、ヒットラーが政権を取った年、ファシズム政権のはじまりだったことはショックでした。昭和のはじめから、隣国朝鮮半島や中国に対する侵略の足跡。否、それは秀吉の時代から、あるいはもっと以前からの偏見と差別による蔑視の歴史の継続の結果であったことを知りました。 広島と長崎に原爆が落とされて日本は敗れました。あの暑い真夏の日、平和が訪れた日、赤いまんじゅしゃげが咲き、ミンミン蝉がかしましく鳴いていた日のことを私は忘れません。昭和と言う時代に私たちの国は大東亜共栄圏を創るとして、アジアの国々を侵略し、1800万人にも及ぶ人々を殺戮していたのでした。 子どもであった私たちは勿論、一部の人を除いて国民はすべてだまされ戦時体制を強いられたのでした。国中が飢え、ボロを着、破れた靴から指が出ていました。 日本の植民地であった朝鮮半島、そして中国からも労働力を補うため人狩りが行われ、強制連行された人の数は数十万人と言われます。清純で汚れを知らぬ故に若い女性たちは集められ、軍と共に慰安所が設置されました。一日何十人もの兵隊の相手をさせられた彼女たちのからだはその心と共にズタズタになったのです。どうしてもとの生活に戻れるでしょうか。国は今に至もなんの補償もしていません。これで侵略して行ったアジアの国々と真の友人となり得るのだろうか、と思い続けて来ました。 少し固いお話になってしまいましたが、これが私の「原点」といえるものです。この原点から私は「人権」「環境」「こどもたちの周辺」「人類の生存を脅かすもの」などの課題に取り組み、行動するようになりました。 1982年7月、北海道内の人々に広く呼び掛け、『原爆の図展』(丸木位里・丸木 俊夫妻の作品)を開催しました。私たちは半年の準備期間に実に貴重な学習をしました。丸木夫妻がなぜ「原爆」を描き続けられたのか。そして晩年、それがどうして「アウシュヴィツ」へ、「三里塚」へ、「水俣」へ、「沖縄」へとつながって行ったのか。核が人間を何世代にも亘って侵し続け、ついに生態系までも変えてしまうかも知れぬ恐怖。食物や生物の体の中で、放射能が蓄積、濃縮して行くしくみ、等々です。7月の暑い日、丸木夫妻を迎えて『原爆の図展』は開幕し、6日間で1万7千人という札幌市民ギャラリーでの記録になりました。 政治は混沌です。自民党による政治は腐敗し切っています。今こそ私たちはこの不正に、裏切りに怒る人々と共に政治を変革しなければならないと思っています。 本当の勇気と恐れを持って!
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「世界」1999年11月掲載「なにを恐れて立つのか」
メールは、go@yasuco.comまで。
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