小原葉子さんへのお別れの言葉

  

 葉子さん、とうとう貴女は逝ってしまいました。

 残された者たちにとっては本当に悲しいことですが、貴女は明るく力いっぱい49年の生涯を見事に生き抜き、悔いのない人生だったのかもしれません。はじめてお会いしたのは私の夫と同じHBCのアナウンサーとして紹介されたと思います。もう20年以上も前のことです。

 1982年、私たちは多くの市民や運動団体、働く仲間たちと共に、丸木位里・俊夫妻の「原爆の図展」を実行しましたが、その中に貴女もいました。二人目のお子さんをお腹に、でも元気にがんばっていました。図展を開催した時、来道された丸木位里・俊夫妻にも新しい生命の誕生を祝ってもらいましたね。

 道議会に女性を出したいと私たちが貴女を口説いたのは十年前、一番下の息子さんがまだ3歳のときでした。最初はもちろんNOだったのですが、決断してからの行動は見事でした。手稲区で初めての挑戦、トップ当選でした。

 道議会での貴女の活躍はめざましいものでした。特に女も男も障害を持った仲間も共に平等に生きられる社会をめざして貴女は闘いました。まだまだ男社会の政治や行政の中で、葉子さんの活動がはじめは理解されないこともあったようですが、貴女の人柄と明るさが徐々に壁を低くし、柔軟な考えを共有するようになっていったと思います。男女共同参画基本計画などに、その成果は大きく表れているのではないでしょうか。

 今年、お正月は我が家で、みんなで乾杯しましたね。葉子さんは楽しそうでした。ひとりの女性としても、妻としても、3人の男の子の母親としても、ごく自然体で周辺の目とか噂とかを気にせず、全てがのびのびと自由でした。本当の自由には責任と基盤の確かさが伴いますが、そこのところが見事でした。その成果は、成長した3人の息子さんたちが、これからしっかり見せてくれるでしょう。

 10年前、当選して半年で脳腫瘍という大きな病と遭遇し、貴女はもちろん、まわりの人々、特にご家族にとって、どれほどショックであったかは想像に余りがあります。大変な精神力で貴女は三度の手術にも耐えましたが、愛するお母様の最期のときも身動きできず、会えませんでしたね。ふつうなら泣き叫びたい状況を、貴女はサラリと乗り越えて弱音をはきませんでした。

 病院をお訪ねしたときはもう呼びかけても応えてはくれませんでしたが、やつれもなく、今にもあの大きな目をあけて笑い出しそうな表情でした。

  がんばり屋の葉子さん! 明るい葉子さん!
  みんなを楽しい気持ちにしてくれた葉子さん!
 もう痛みも苦しみもない世界で、のびやかに、自由に、楽しんでください。
  安らかにお眠りください。
 

 
2001年3月8日に死去した小原葉子さんへの追悼の言葉です
   

ピンの画像です小原葉子さんの公式ホームページ(メモリアル版)
 

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