教科書選定問題について

              永美了(「日本の戦後責任を清算するため行動する北海道の会」会員)


 文部科学省は3日、新指導要領が実施される来春から小・中学校で使われる教科書の検定結果を公表した。中学校社会科では、現行の教科書を「自虐史観」などと批判する「新しい歴史教科書をつくる会(以下、つくる会)」(西尾幹二会長)が中心となって執筆した扶桑社の歴史、公民の教科書が、修正に応じていずれも合格。一方、「慰安婦」など旧日本軍の加害行為は、削除、簡素化されるなどの”自粛”編集が目立った。「つくる会」の教科書合格に対し、韓国や中国は強く反発しており、今後の日韓、日中関係に影響を与えかねないとみられる。(北海道新聞2001年4月4日朝刊一面トップ)  

 新指導要領実施に伴う教科書検定作業が終わった。「つくる会」の中学歴史・公民の教科書は、歴史教科書では137カ所、公民教科書では99カ所の修正に応じた上での合格だそうである。韓国と中国は強く反発している。個別の表現はともかく、「つくる会」の声明で「検定合格は深い感慨にたえない」とし、「つくる会」西尾幹二会長が「修正は残念だが、全体としては、私どもの歴史観が貫徹されたと思う」という趣旨の発言をしていることからして、韓国と中国の反発は当然であろう。

 3日の記者会見で西尾会長は、「(中国や韓国の批判に対して)両国への配慮に欠けるというのは誤解。議論すれば分かってもらえる内容」「外国の圧力で不合格にでもされていたら、日本人は二度と自前の歴史認識に立つ教科書をつくることはできなくなっただろう」などと反論したという。また、町村信孝文部科学大臣も3日異例の記者会見を行い、「合格した本をご覧いただければ、中国・韓国などの懸念もあらかた解消される、と期待する」などと、内容にふれない弁解を行った。

 いくつかの点について論じてみたい。

 一つは、いわゆる「近隣諸国条項(近隣諸国との国際理解と国際協調に配慮する)」の問題にからんで、韓国政府・中国政府などの批判にどう対処すべきかという問題である。”近隣諸国条項”は”内政干渉”ということで右翼からの批判の的になっている。誤解を恐れずに言えば、私は、政治的・外交的な意味における諸外国からの批判については、ご意見としては有り難く承るとして、それに振り回されることはないと考える。

 一例を挙げれば、中国政府の外交手腕は日本など到底及ぶところでないことは既に明らかであるが、中国政府の思惑などに振り回されていれば「全面的な中華思想への屈服」でもしなければ収拾がつかなくなるのではないかと考える。要するに、パワーポリテイックスにおける批判に”純真に”対応することは国際政治における自滅を意味する、ということである。では、韓国・中国をはじめとしたアジア諸国からの意見に耳を傾ける必要はないかというと、それは違う。民衆レベルでの”アジアの声”に耳を傾けなければならないことは言うまでもないことであろう。NGO、各種民主団体、労働組合、市民運動体など様々な形での民衆レベルの声を受け止めることが必要である。

 この場合、ただ単に”意見をお伺いする”ということだけであってはならない。双方が”対等・平等”の立場で、真摯に意見交換を行うことが必要であろう。双方の教育学者、歴史学者、NGO、そして出来れば”普通の人”たちも参加できればベターであろう。そして、継続的にこうした営みを行う中で、”双方の教科書”についての意見交換の場を日常的に確保すべきであろうと思う。

 それでは、こうして得られた貴重な意見を、どうやって「教科書検定」の中で認知させていけば良いのであろうか。今日の文部科学省が行っている検定制度では、出来っこないことは自明の理である。そこで、第二の問題である。

 そもそも、国家権力による「教科書検定」などという制度は必要なのであろうか。結論から先に言えば、私は、そんなものは必要がないと考える。今の自公保連立政権がダメだからとか、自民党半永久政権?がダメだからとかいう理由ではない。”国家”であるとか”権力”とかいうものは、結局のところ、民衆に敵対するものであり、民衆を思い通りに支配・管理したいという”権力のデーモン”から逃れられないものだと思うからである。 

 何らの制限を設けることなく好き放題に「義務教育教科書」を編纂させ、それらの選択を学校教育の現場に一任すれば良いのではないかと思う。極右から極左まで、皇国史観から自虐?史観まで、様々な教科書が発行されるであろう。体制側ベッタリの連中は金に飽かして立派?なものをつくるであろう。我々も金がない、などと言ってはおられない。

 これらについて、NGO・民主団体・労働組合・市民運動体そして市井の普通の人からのマスコミを通じての意見などが寄せられる。マスコミは、自らの「独自の社説」を展開することはもちろんであるが、普通の人たちの「意見発信装置」としての役割を果たす義務を負うのである。前段では明確に自社の見解を打ち出し、後段では公平無私の中立的立場を堅持することが要請されることは言うまでもない。    

 さて、その次の、学校教育現場に、どの教科書を選ぶかの判断を一任するということについてである。これはなかなか難しいところである。私は、この「学校教育現場」という言葉に多くの思いを込めて使用した。その心は、「学校教育現場を構成するものは、子たちであり、親たちであり、現場の教師たちである。決して、教育委員や教育委員会事務局の行政官などではない。」ということである。当たり前だと言われるかも知れないが。

 実際問題として、僻地校のような場合、極く少数の人間で教科書を選択・採用することになる。しかし、このことに矛盾はないと考える。何故なら、日常の教育行為自体が少人数の教師たち、そして少数の子たち、親たちによって運営されている以上、そのことが可能と判断されている以上、そこに任せるしかないことは当然だからである。

 さらに言う。その選択行為は、中学校であれば、当該中学校の当該教科を担当する(専門教科であるか否かを問わず)教師あるいは教師たち、子たち、親たちによって行われるのである。小学校であれば、学年ごとに、教師たち、子たち、親たちが参加して選定すれば良いであろう。

 「校長及び教頭は、自らの専門教科に関してのみ発言権を有するが採決権はない」というのが理想的な方法だと思うが、校長、教頭などという制度を認めてしまっている状況の中では、「校長及び教頭は、教科書採択全体会議(仮称・要するに全体会議)において、意見を述べ、どうしても当該教科の担当教師たち、子たち、親たちと意見が対立する場合は、「一度だけ拒否権を発動することが出来るが、それ以上の干渉は出来ない」というぐらいが妥協点であろうか。もう一冊ぐらいは、まともな教科書があるであろう。

 もちろん、教育委員会などには何の権限も与える必要はない。この採択された教科書に従って学校現場が運営され、その結果に問題があると考えた場合に限って、子たち、親たち、教師たちと意見交換をしながら、より良い学校教育現場の運営について模索すれば良いのである。それ以上の何を教育委員会に望むことがあろうか、である。

 さて、こうした「文部科学省の教科書検定制度粉砕」を大前提とすると、原則的には、極右の「つくる会」の教科書も、この世に存在して良いことになる。それを選択する学校教育現場があれば採択されることもあると思われる。それでも良いのである。

 そもそも、教科書制度自体がこのように「自由化」されている中では、教科書の権威などというものは無意味に近くなる。単なる参考書であろう。現在だって、教科書の記述の中身に左右されている子たちがいかほど存在するというのか。自分たちが小・中学生だった頃のことを思い出してみれば分かるであろう。  

 教師たちも、自らの主体性を発揮した創造的授業を展開する心意気があるならば、教科書に「つくる会」御用達の教科書が採用されたからといって何ら心配することはない。盛大に反面教師として使わせていただければ良ろしいだけのことではないのか。脳天気なことを言うな!と怒られるのは分かるが、あくまでも「原理的」に言えば、そういうことではないのか。要するに、子たちに圧倒的な影響を与えるものは「世間の常識」「社会の風」なのである。それに相反する「教科書」も、「教師の言説」も、子たちに対する影響力を持つことは出来ない、ということなのだと思うのだが。

 さて、検定合格教科書に対して、どの教科書を採択するか決めるのは各地の市町村教育委員会の権限に属する。北海道では市町村が共同で採択する場合が多く、道内は24の採択地区協議会において、採択地区ごとにつくられる、校長、一般教員、学識者などで構成する「選定委員会」が調査の上決定することとなる。北海道教育委員会においても調査・研究の上、各地区への指導・助言を行うことになっている。

 この制度は感心しない。何故なら、どこのどなたが選定委員なのか、何故にその教科書を選定したのか、あるいは、されなかったのか、などについての「情報公開」が全くといって良いほど行われていないからである。教師たち、親たち、子たちのフリートーキングなんてことには考えもつかない方々がおやりになっているのであろう。おそらく、「自分たちのような教員資格を持っている者の中のベテランや学識者の方々だけが、教科書選定という”神聖”な業務に携われるのだ」とでも考えているのであろう。何とも情けない話ではある。そして私のような意見に対しては、「教育委員会にやらせれば「つくる会」の教科書を押しつけられかねない」とか「未熟な子供やアホな親たち、そして一般の教員に議論させるなんて、バカも休み休み言え!」という反論?が返ってくるのであろう。

 こんなことだから、「つくる会」から、現在の「選定委員会方式」を止めて、原則どおり「各市町村教育委員会」に選定させろ、などという要求が出ると、「むべなるかな」というような反応が、名もない市民のサイドから出るのは、蓋し当然であろう。

 とりあえず考えるべきことは、
1.教科書検定は無くして自由選択制にすること
2.現在の情勢にあっても、創造的授業の構築に向けて、自主的努力を、出来れば「教師集団」として行うこと
3.現行の教科書採択に当たっては、従前の例を踏襲しつつも、すべてを公開すると共に、親たち、子たち、一般の教師たちが自由に参加できる「教科書採択に関する公聴会」を1地区につき10回以上、開催すること
てなところであろうか。

 原則的にものを考えて、最低限度のことは実現してほしいものである。   

 


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